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2020.9.11

ビールで大成功したギネス家とは?世界のメーカーになれた理由

(写真=Anton Ivanov Photo/stock.adobe.com)
(写真=Anton Ivanov Photo/stock.adobe.com)
「ギネス」という言葉を聞いて、日本人の多くが2つのことをイメージするのではないでしょうか。1つめはギネスビール、2つめはギネス世界記録です。ここでは両方に深く関わるギネス家にフォーカスします。200年以上に渡ってビール醸造、政財界、金融界で栄華を誇った名家がなぜ生まれたのかに迫ります。
 
 

ギネスの奇跡。創業以来、傑出した経営者が続いた一族の歴史

ギネスといえば、日本でもおなじみの黒ビールのブランドです。濃厚で甘みのあるコクが特徴で多くの人々を惹きつけています。

この黒ビールを武器にギネス家は発展しました。彼らが数多くのライバル醸造所よりも抜きん出られた理由は、傑出した才覚の経営者が創業以来、ずっと続いたことに尽きるでしょう。

一代で財を成しても、子孫がそれを食い潰し衰退する例は古今東西、数多くあります。ギネスは奇跡といえるほど、優秀な経営者が続きました。それにより、創業者のアーサー・ギネスが1759年にアイルランドの首都ダブリンでビール醸造所を開いてから成長し続け、約220年後の1980年代には世界有数の資産を持つ巨大企業となりました。

また、ビール醸造会社として成功をおさめたギネス家は、上流階級社会、政財界、金融界で活躍した人物を数多く輩出したことで知られます。そのすべては、創業者のアーサー・ギネスがアイルランドにビール醸造所をつくったことからはじまります。

 

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時代の変化をつかんだギネス創業者アーサー・ギネス

ギネスビールの創設者、アーサー・ギネスは1725年にアイルランドで生まれました。父親のリチャード・ギネスはアイルランドの教会聖職者であったプライスの財産管理人をしていて、 アーサー自身も10代後半からこの教会聖職者プライスに秘書のような役割で仕えていたといわれます。ギネス親子はプライスが1752年に亡くなるまで仕えていました。

アーサー・ギネスは34歳でビール醸造所を開設

その後、父親のリチャードが宿の経営者になった関係で、アーサーも宿で働くようになります。このころからビール醸造にも関わるようになったようです。このアーサー・ギネスの人生が一変するのは1759年、34歳のときにアイルランドの首都ダブリンに移転したことがきっかけです。アーサーは、この地で休業状態だったセントジェイムズゲート醸造所とリース契約を行い、ビール王となる第一歩を踏み出しました。ここから先、彼が事業を急拡大できた原動力になったのは、ビール業界の変革の波にのれたことが大きいでしょう。

ポーター(黒ビール)ブームで成り上がったアーサー・ギネス

ビール業界に起きた変革とは、ポーターといわれる黒ビールがイギリスで大人気を博したことです。このポーター人気の潮流にのり、先行者利益を得て登りつめたのがアーサー・ギネスでした。

しかし、ポーターそのものをアーサー・ギネスが生み出したわけではありません。ポーターにチャレンジしていたビール職人の1人が彼だったのです。セントジェイムズゲート醸造所とリース契約をしてから約25年後の1783年前後に、その後成長の原動力となるポーター製造をスタートさせ、1799年にはポーターに注力した醸造所になりました。

ポーターの味わいは、芳醇でコクがあるのが特徴です。現在の大半のビールは一気にゴクゴク飲むのが一般的ですが、キリンビールの解説によると、このタイプのビールは「ちびちびと味わうようにして飲むのが正解」とのことです。当時、ポーターは労働者階級からとくに支持されていました。諸説あるもののポーターとは港湾の荷運び人を指し、彼らに愛されたことでこの名がついたとされます。

もう1つのポーターの特徴は、長期貯蔵がしやすいことです。加えて、輸出される際に船で長い期間揺られても品質が落ちにくいため、広いエリアでビール事業を展開するのに有利でした。

しかし、ポーターに進出したアーサー・ギネスがすぐに成功をおさめたわけではありませんでした。当時のアイルランドはイギリスの支配下にあり、ビールの価格設定を自由にできませんでした。しかし、アーサー・ギネスがポーターを本格展開するのとほぼ同じタイミングでアイルランドは立法の自由を認められ、イギリスの支配力が弱まりました。これもギネス躍進にはプラス材料となったようです。

ポーター・ブームの潮流に乗れたこと、そしてアイルランド自由化という絶妙なタイミング。この2つの要素がギネス社創業者、アーサー・ギネスが成功できた背景にあります。

まだある!アーサー・ギネスの成功に欠かせない3つの成功要因

時代の変化をとらえ、その波にうまく乗れたことがアーサー・ギネス成功の最大の理由でした。しかし、成功要因はほかにもあります。次の3つが加わったことで、無名の青年が開いたビール醸造所が、アイルランドやイギリスで影響力を持つビール醸造会社になれたのです。

・アーサー・ギネス成功要因1:大運河近くの醸造所
アーサー・ギネスの成功に欠かせないのは、創業の地「セントジェイムズゲート醸造所の立地」です。彼はこの醸造所を見つけたとき、すぐ側で大運河計画が進んでいることを見逃しませんでした。この計画が進めば、醸造所でつくったビールを船運によって効率的に出荷しやすくなります。

しかも、この醸造所は大運河計画が進んでいる立地にあるにも関わらず休業状態でした。そのため、最高の条件の醸造所を有利な契約内容で手に入れられたのです。ただ資本力が限られていたアーサー・ギネスは、この醸造所を買うことができず、リース契約となりました。

ビジネスの発展には、この醸造所の立地が不可欠。そんな姿勢の現れからか、アーサー・ギネスは醸造所のリース契約期間を強引に9000年に設定しています。それだけ彼がこの醸造所の立地の価値を理解していたということでしょう。実際に、後のギネス社は船運を武器に販路を拡大します。

・アーサー・ギネス成功要因2:妻オリヴィアの存在
ギネス家の発展にはアーサー・ギネスの妻、オリヴィアの存在も深く関わっています。アーサーとオリヴィアが結婚したのは1761年、つまり、アーサー・ギネスがセントジェイムズゲート醸造所とリース契約してから2年後のことでした。その時点でアーサーは30代半ばにさしかかっていましたが、オリヴィアはまだ10代。生涯で10人の子をもうけ、その後のギネス家の系譜が形成されました。

また、オリヴィアが上流階級出身だったこともギネスの発展にとって幸運でした。この結婚によってアーサー・ギネスはダブリンを拠点とする数々の名家とのつながりも手に入れました。たとえば、金融界で影響のあったダーリー家や市長を輩出したスマイス家などです。この人脈によって、新興の地でビジネスを展開しやすい環境を構築できたと考えられます。

・アーサー・ギネス成功要因3:ダブリンの人々への社会貢献
ギネスの繁栄は、創業醸造所のある街・ダブリンとともに歩んだことも大きいようです。アーサー・ギネスは、ビジネスの成功で得た富を街の人々に還元しました。彼が後世に残した学校、公園、基金、制度は膨大な数にのぼります。そして、ダブリンにはいまでも、アーサー・ギネスの偉業を讃える銘板や墓碑銘が数多く残されているそうです。

そして、アーサー・ギネスの意思を受け継いだギネス一族も街の発展に寄与し続けました。街の人々と一体となってギネスをつくり広めたこと。これもギネスが世界で発展した原動力になっています。

アーサー・ギネスは、遅咲きで粘り強い経営者だった

このように創業者、アーサー・ギネスの人生をまとめると、30代半ばから一気に成功の階段を駆け上った印象を受けます。しかし、ギネスが名実ともにアイルランドを代表するビール醸造所となるのには、かなりの期間を要しました。ギネス家の創業者は遅咲きで粘り強いタイプの経営者だったのです。

ギネスが、アイルランドの英国政府総司令部のあったダブリン城にビール納入を許されるのは、アーサー・ギネスがダブリンにビール醸造所を開いてから約20年後の1779年のこと。ギネスはビール納入の許可を得るまで、20年もの間チャンスをうかがっていたことになります。長い年月がかかったものの、これにより、アーサーは名実ともにアイルランドを代表するビール醸造会社の地位を得ることに成功しました。

もう1つ、アーサー・ギネスについて特筆すべき点は、会社が大きくなって上流階級との親交を深めても、彼はビール職人として新たな醸造方法の研究に情熱を注ぎ続けていたことです。アーサー・ギネスは1803年1月23日に世を去りますが、死ぬ直前まで新しいビール醸造を追求していました。その証として、彼の醸造手帳には死ぬ約1年前まで新たなビール開発のアイデアを書き留めていたそうです。

大不況を耐え抜き商圏を拡大した二代目、アーサー・ギネス二世

アーサー・ギネスの後を継ぐ、次男のアーサー・ギネス二世も素晴らしい才覚を持った経営者でした。彼がギネスのトップだった19世紀前半、アイルランドが凄まじい大不況におおわれました。それにも関わらず、「商圏の拡大」と「経営の安定化」という攻守を成し遂げたのです。

理想的な二代目だったアーサー・ギネス二世

アーサー二世は、父親が築いた資産をもとに、それを大きく拡充した有能な後継者でした。彼がトップの座に就いたとき、ギネスの商圏は醸造所のあるダブリン周辺が中心でした。その後、アーサー二世は父親の「ギネスを世界的なブランドにしたい」という意思を受け継ぎ、販売網拡大を実現したのです。

アーサー二世がビジネスを順調に拡大できた理由は、彼自身の能力に加えて、理想的な環境でトップに就けたことも挙げられるでしょう。アーサー二世は、経営者に就くまで父親のもとで10年間ビール醸造の修行を積んでいました。彼が父親から経営トップの地位を引き継いだのは35歳のとき。父親はまだ存命中で共同経営者の体制でした。1794年、ダブリン市商工人名録にアーサーとその息子(アーサー二世)の名が記されています。

ビール醸造の十分な経験と知識を蓄え、働き盛りの30代半ばでのトップ就任。しかも当初は父親との共同経営体制です。一代で国を代表するビール醸造会社を作り上げた父と一緒に経営できたことが、アーサー二世の経営者としての素質を伸ばす最高の環境であったことは容易に想像できます。

アーサー・ギネス二世は、アイルランド銀行の頭取まで務めた

実はアーサー・ギネス二世がトップに就いている時期、ギネスは苦境に立たされています。ナポレオン戦争後の大不況で連合国の失業率が上がり、インフレが進行したのです。なかでも不況がひどかったのはアイルランドで、ダブリンに拠点を置くギネスも逆境にありました。

好調だった1815年と苦境の1823年を比較すると、ギネス社のビール製造量は6万6,672樽から2万7,185樽まで落ち込んでいます。通常、ここまで製造量が急減してしまったら倒産リスクが非常に高まります。しかし、アーサー・ギネス二世はアイルランド銀行の頭取を務めるほどの才覚があったため、この危機を乗り越えることができました。

金融業のセンスも持ち合わせていたアーサー・ギネス二世は、1820年頃から醸造業を次男(アーサー・リー)と三男(ベンジャミン・リー)に譲り、金融業に専念しはじめます。人生の大半を、苦境の時代を生きながらも成功者として過ごしたアーサー二世でしたが、晩年は息子の問題で悩まされることになります。

次男のアーサー・リーはお金の管理が苦手で多額の借金を背負いました。また、ビール醸造よりも芸術に興味があったため、共同経営者から外してほしいと言い出すようになったのです。これにより、ギネスの三代目は三男のベンジャミン・リーとなります。

ビジネスに不向きだった次男は社会貢献で活躍

ビール醸造というビジネスには向かなかった次男のアーサー・リーですが、社会貢献の分野でその能力を開花させました。1845年、ジャガイモが胴枯れ病によって収穫が激減し、アイルランドが大飢饉になりました。当時の様子は、腐敗した死体が路地をふさぐほどだったようです。胴枯れ病は流行を繰り返し、1848年には大勢の人々が国外脱出を試みたほどでした。

この危機に対し、アーサー・リーは先頭に立って周辺農民などの援助を行いました。このことは結果的に、ギネス家を社会貢献に積極的な名家という評価を高める一因になりました。

販路整備で売上を30倍に拡大した三代目、ベンジャミン・リー・ギネス

創業約100年を誇るギネスの驚異的な発展は、傑出した経営者が続いたことによって実現したといえるでしょう。このうち1人でも経営の舵取りに失敗していれば、ギネスの今日の成功はなかったのではないでしょうか。優秀な歴代経営者のなかでも三代目のベンジャミン・リー・ギネスは、発展への貢献度が高かったと見る向きもあります。

数字で見るとベンジャミン・リーのギネスへの貢献度がよくわかります。彼がトップに就いてから、ギネス社の売上は約30倍、工場規模は3倍に拡大しました。それと共に彼はアイルランドを代表する富豪になったのです。

ベンジャミン・リーがここまで売上を伸ばせた理由は、販路の整備です。それまでのギネスはアイルランドやイギリスなどで絶大な支持を得ていましたが、さらに販路を拡大するために海外流通会社を創設。1860年頃にはギネスがオーストラリアや南アフリカに輸出されるようになりました。

併せて、ベンジャミン・リーはそのころ発達していた鉄道輸送を利用してアイルランドの国内シェアを4倍にすることにも成功しました。海外展開と国内シェアの拡大。この両方を実現したことが、さらなるギネスの発展を可能にしたといえます。

そして、会社の凄まじい成長によって、ギネス家はアイルランドを代表する富裕層となりました。ベンジャミン・リーは、ロンドンのパークレーンに自宅を構えイギリスの上流階級との関係も深めました。ギネス家が事業家から上流階級へ登る足がかりを彼がつくったといえます。

株式上場で巨万の富を得た四代目、エドワード・セシル

ギネス社の勢いは、ベンジャミン・リーの息子、四代目のエドワード・セシルに継承されても衰えませんでした。彼がギネス社を受け継いだとき、醸造所は世界でも十指に入る規模にまで成長していました。さらにセシルは、ギネス社を史上最大の醸造会社にまで成長させます 。

ただエドワード・セシルの経営スタイルは、歴代の社長とは対照的でした。それまでの社長たちは現場に深くコミットして会社を発展させてきました。特権階級として育ったエドワード・セシルは現場と距離を置き、優秀な部下たちに権限を与える経営スタイルをとったのです。

このように紹介すると、事業に関心を抱かないドライな経営者のように感じる人もいるかもしれませんが、決してそうではありません。彼がギネス社に参加してからの18年間でギネスビールの生産量は4倍にまで伸びました。それまでの経営者と同様、才覚にあふれていたのです。

エドワード・セシルはダブリン知事も務めており、アイルランド内の貴族階級も男爵から子爵、さらに伯爵へ。併せて、イギリス貴族の一員のポジションも手に入れました。エドワードの時代にギネス家は、貴族階級としての確固たるポジションを手に入れたのです。さらに、1886年には株式上場を果たし、巨万の富を得ることになります。ギネス家はアイルランドの名家から世界の名家に飛躍したのです。

ギネス家は「金融のギネス一族」へ。1980年代に純資産額10億ポンドのメガ企業に

四代目のエドワード・セシル以降、彼の子孫などに伯爵の称号が受け継がれ、ギネスの栄華は続きました。さらに政財界にギネス家の血筋を受けた数多くの人物が見られます。とくに金融界で活躍した人物を数多く輩出したことから、「金融のギネス一族」ともいわれます。

ちなみに、ギネスと縁の深い「ギネス世界記録」は当時、ギネス醸造所の最高経営責任者だったヒュー・ビーバー卿のこんな一言から生まれました。

「ヨーロッパで最も速く飛ぶ狩猟鳥はどれか?」

これによって1955年以来、いろんな分野の世界一を集めた「ギネス世界記録」が毎年出版されるようになり、現在100ヵ国以上で累計1億4,300万冊以上が販売されています。

1980年代にはギネス社の純資産額は10億ポンドを超え、ビール醸造会社ではなく世界有数の資産を持つメガ企業になっていました。規模があまりも拡大したため、アーサー・ギネスが創業してからはじめて1986年にギネス一族以外の人が会長職に就きました。これにより、それまで一体だったギネス家とギネス社が分かれていくことになります。

その後、1997年には、ギネス社とグランド・メトロポリタン社が合併。世界最大のアルコール飲料会社ディアジオ社が誕生しました。

二代目の味「ギネス・エクストラスタウト」と創業200年後の味「ドラフトギネス」

このように現在のギネスブランドは、ギネス家とイコールの存在ではなくなりました。しかし、ギネスが世界中で愛されるビールであることには変わりありません。20以上の商品が誕生し、現在では150ヵ国で愛飲されています。

現在、日本で楽しめる代表的なギネスビールは、現代人の嗜好にあった「ドラフトギネス」と、創業期から伝わる伝統的な製法に基づく「ギネス・エクストラスタウト」があります。

「ドラフトギネス」は、クリーミーな泡と甘みと苦みが複雑に絡み合った味わいが特徴。アーサー・ギネスがセントジェームズゲート醸造所とのリース契約から200年後の節目に誕生しました。一方の「ギネス・エクストラスタウト」は重厚かつ爽快な味わいで、アーサー・ギネス二世が残した手順を基につくられています。

同じギネスビールでも飲み口も背景も違う両者。お好みで選んでギネス家の栄華と挑戦に想いを馳せながら、ゆったりと飲むのもよいのではないでしょうか。

参考文献:スティーヴン・マンスフィールド著「 ギネスの哲学  地域を愛し、世界から愛される企業の250年」(英智出版)、フォーブス、ギネス公式サイト

 


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