(本記事は、髙橋 秀彰氏の著書『
「一見さんお断り」の勝ち残り経営』ぱる出版の中から一部を抜粋・編集しています)
徹底するとどうなるのか
究極の量産ライン
京都花街での、花街文化のよさを広く知ってもらう一見客への取り組みについて述べてきました。そしてそれは一般企業での量産的な普及品に該当するものの、おもてなしの品質は決して下げないことを述べてきました。ここで、このように本業の根底にあるおもてなしの考え方が完成されていて、長年その考え方に基づいた活動を徹底的に突き詰めて継続していると驚くべきことが起こります。
芸舞妓が白粉・裾引きの盛装で立っているだけとか、歩いているだけで花街文化の発信となり、多くの一見客に花街文化のよさを広く知ってもらえるという、究極の量産的なラインとなるのです。
「あんなに目立つ、非日常的な格好をしているのだから当然だろう」と感じるかもしれませんが、当然ではありません。毎日毎日、手間暇のかかる白粉・裾引きの盛装をすることや、それに伴い最高級の着物や帯や簪や履物をそろえること、舞妓はあの日本髪を地毛で結っているために一週間に一度ほどしか髪を解けないこと、毎日の厳しい稽古と毎晩の宴会によって立ち居振る舞いが磨かれること、そもそもあの白粉・裾引きの恰好ができるのは中学を卒業してすぐに仕込みとして入ってからお見世出しまでの修業に耐えることのできた者だけであること、お見世出しまでに半分以上が修業に耐えられずに脱落すること、年季が明けるまでの芸舞妓には一切のプライベートがないこと等々の背景があるのです。
さらにそれらの根底には時代の変化では揺らがないほどに完成されたおもてなしに対する考え方があり、それが長年の間、途切れることなく継承されてきたという歴史と伝統の重みがあるのです。徹底するとどうなるのか
逆に言うと、揺るがない完成された考え方のもとにおもてなしを長年徹底的に突き詰めたがゆえに、芸舞妓が立っていたり、歩いているだけで一見客を対象とした量産的なラインとなるのです。
おそらくこれも、一般企業にも当てはめられる可能性があります。自社が世に出すものを確固とした考え方に基づいて、その品質を長年磨き続けると、特に意図しなくても潜在顧客の裾野が広がっている可能性があります。しかしそのためには、京都花街レベルの完成度の高い考え方と、長期間の徹底を要することになります。
個別受注生産に量産が割り込んだ事例
通常の正規顧客と一見客に対するお茶屋の仕事、それを一般企業に当てはめるとどうなるのかについて見てきましたが、ここで少し、京都花街のお茶屋ならではの例外的な事例を紹介します。
前述したとおり、移動や撮影や屋外での舞踊の仕事等以外で芸舞妓があの盛装で外を歩いている場合は、お花をつけている正規顧客とその顧客が招いたビジターへのおもてなしをしている最中です。盛装なのに特に目的もなくフリーでぶらぶらと外を散策していることはありません。
つまり、屋外で芸舞妓がゆっくりと散策しているように見えるときは、一見客ではないお茶屋の正規顧客に対して、お茶屋の本業たる個別受注生産でのおもてなしの最中であるということを意味します。正規顧客が芸舞妓の普段の労をねぎらうごはんたべという場合もありますが、それでも顧客はその時間中はずっとお花をつけており、芸舞妓もおもてなしのスタンスを崩してはいません。
いずれにしてもその最中は、本業の個別受注生産のおもてなしの最中です。
そのような時に、よく観光客から写真撮影の依頼をされます。日本人、外国人を問わず、京都観光に来てたまたま芸舞妓が歩いているのを見かけたら、写真を撮りたくなる気持ちはよく分かります。芸舞妓は平成二十九年現在で京都五花街を合わせて二五〇人ほどであり、そのうち舞妓は一〇〇人ほどです。つまり日本に現役の舞妓は一〇〇人ほどしかいないことになりますから非常に貴重です。ますます写真を撮りたくなる気持ちは分かります。
本業のおもてなしで正規顧客と外を歩いている最中に観光客から写真撮影を依頼された時、舞妓はお花をつけている客、つまり同行している顧客に対して「お兄さん次第どす(が、どうしはりますか)」と聞きます。
そこで顧客が承諾したならば舞妓は観光客からの写真撮影に応じますし、顧客が断った場合は、舞妓が観光客からの写真撮影を断ります。その時の顧客が私である場合は、花街文化の発信という趣旨からなるべく写真撮影を承諾するようにしていますが、あまりにも次から次へと声を掛けられて移動に支障が出るような状況になりそうな場合はやむを得ず断ります。
このような場面は、本業の個別受注生産に、一見客を対象とした量産品が割り込んだ状態で、京都花街の芸舞妓ならではの特異な場面です。これも、芸舞妓はただ歩いているだけで量産的なラインとなっているがゆえの実例と言えます。
フェラーリの逆説的事例
よく知られた話しですが、イタリアの高級スポーツ自動車メーカーのフェラーリは、創業者が自動車レースをすることを第一の目的としていて、レース参戦の資金を捻出するために公道を走る市販車を製造して販売したという歴史があるといいます。
レース参戦やレーシングマシンは販売目的ではありませんし、すでに死去しているフェラーリ創業者の考え方が今現在どれほど残っているかも分かりません。しかし、レーシングマシンという一点ものの高い技術への徹底的な追求を上位とし、そのための資金捻出手段にすぎなかった市販車の製造販売を下位とすれば、ここでも上位互換と似た概念が生じています。また、普及品とは言い難いものの、フェラーリが量産する市販車は創業当初から購買層に熱狂的に支持されており、それは今でも続いています。さらに、規模の拡大を狙うことはせず、「市場の全需要マイナス一台の生産」を狙うという方針も有名であり、独自路線を進んでいて他の同業製品とは代替が困難であることと相まって、全く価格競争には巻き込まれず、今現在でも、市場では品薄状態が慢性化しています。
ここまで述べて分かるように、京都花街のお茶屋と自動車メーカーのフェラーリは、多くの似通った点があります。
経済規模が小さくても世界的に有名である点も似ています。
ただし、京都花街のお茶屋は三五〇年の歴史がありますが、企業としてのフェラーリは七〇年の歴史しかありません。
もちろん、お茶屋とフェラーリは全く別の業種ですから多くの相違点があるのは当然です。
フェラーリが京都花街のお茶屋の経営を参考にしたとは考えられませんが、それとは関係なく、京都花街のお茶屋の経営を研究し参考とすれば、ここに述べた現代の一般企業としてのフェラーリのようなニッチ市場での成功も見えてくるように思います。
京都花街のお茶屋の経営は特殊な環境の中での特殊な経営ではなく、歴史の短い一般企業にとっても充分に参考になり、現在に活かすことができる点が多い事例だと考えられます。
両方のラインに流れるもの
話を京都花街のお茶屋に戻します。
お茶屋でのもともとの本業のおもてなしと、一見客を対象とした業務を見てきましたが、どちらにも共通する点として、圧倒的な品質のおもてなしまたはおもてなしの精神によって顧客に満足してもらうという点があります。
ここの部分がブレないがゆえに、一見客を対象とした新しい企画やイベントのオーダーを受けても、京都花街はその京都花街らしさから逸脱せず、昔からのイメージを崩すことなく独自の立場を維持し続けてきたのだと感じます。
商品でも製品でもサービスでも、自社が世に出すもの全てについて、その根底に自社のベースとなる考え方が共通して流れていることが、長期の維持存続と発展に重要なことだとこの事例は教えてくれます。
それでも本業は一見さんお断り
本業をどこに定めるのか
またしても自動車メーカーの話しで恐縮ですが、少しだけお付き合い下さい。
日本の自動車メーカーの本田技研工業株式会社(以下、ホンダと記載します)は創業以来、諸事情によって自動車のF1レースに参戦したりしなかったりですが、レース参戦の目的は、レースで培った技術の量産車へのフィードバックというものです。
興味深いことに前述したフェラーリの考え方と真逆です。それは良い悪いという話しではなく、どこに本業を定め、どの方向に向かうのかという経営方針の問題です。
ホンダの場合は量産車の販売を本業と定め、規模も拡大する方向で進んできました。フェラーリはレース参戦を目的とし、その資金捻出のために量産車の製造販売を開始しており、規模を拡大するという方向には向かいませんでしたし、その必要もありませんでした。
本業をどこに定めるかによって、一点もののレーシングマシンと量産車の位置づけは全く違ったものになり、会社の向かう方向も違ったものになります。市販しているものとして世に出すものも、その性能や価格や方向性や品揃えの数や生産台数も全く違ったものに
なります。
どのような考え方でどこに本業を定めるのかという違いは、例えば同じ自動車メーカーであってもフェラーリとホンダのような大きな違いを生みます。
ここで重要な点は、いずれにしても、両社ともに一定の成果を収めた企業であり、本業をどこに定めようとも、一点ものと量産品の両方に共通してその根底に自社の考え方が存在している点です。
言うまでもなく京都花街のお茶屋は、個別受注生産でのおもてなしの提供を本業と定めており、圧倒的なおもてなしの品質で勝負するという考え方です。その結果、当然に本業は一見さんお断りとなりますし、規模の拡大という方向性は切り捨てています。
本業あってこその
仮に、一般企業が個別受注生産の高付加価値・高価格帯のものを世に出すことを本業と定めていて、その品質が長期にわたって徹底的に磨き抜かれたものであるとき、そのよさを広く知ってもらい本業の顧客予備軍の裾野を広げるために量産型の普及品を品揃えに加えたとします。
もしもその量産型の普及品が次々と大ヒットし、今後も継続的に大きな収益が見込めるような場合、その企業は量産型の普及品の販売を本業とする方針転換をするべきでしょうか。
それはケース・バイ・ケースであり、正解はありません。個別に諸事情を検討しなければならないでしょう。
京都花街のお茶屋の場合は、どんなにマスメディアからの取材があろうとも、どんなにビアガーデンが好評で満員御礼であろうとも、どんなに撮影会が盛況であったり修学旅行や旅行社企画やホテル企画からの引き合いが多かろうとも、一見さんお断りの個別受注生産のおもてなしによって宴会を成功させるという本業は変えません。
したがって、一見客相手の業務を直営することは決してありません。
京都花街のお茶屋の事例の場合、量産型の普及品への引き合いは、圧倒的に磨き抜かれた高品質の本業あってこそのものです。そこからズレてしまい、あの芸舞妓の姿形だけを売り物にしたならば、マスメディアには受けるでしょうが、京都花街の長期的な存続はなかったでしょう。
一般企業でも、どんな収益構造になろうとも、やはり本業あってこその自社の長期的な存続であると考えてほしいです。
髙橋 秀彰(たかはし ひであき)
髙橋秀彰綜合会計士事務所 代表。公認会計士・税理士・宅地建物取引士。昭和40年生まれ、愛知県出身。立命館大学理工学部卒。創業当初の資金状況の苦しい中でも「一見さんお断り経営」を貫き、公認会計士であるにもかかわらず経済合理性に反するリスクを背負った経営判断を行ったことから一目置かれる信用と実績を築く。とくに他の会計事務所では手に負えない高度な案件などを得意としており、数多くの相続対策や非上場企業の株主構成の再構築、資金繰り改善の実績を持つ。また、京都花街のお茶屋では稀有な顧客として知られ、京都花街の不文律や裏事情にまで精通している。
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