(本記事は、髙橋 秀彰氏の著書『
「一見さんお断り」の勝ち残り経営』ぱる出版の中から一部を抜粋・編集しています)
何を競うかが決め手
何を売っているのか
一般企業が価格競争への対応を考える場合、そもそも何を売っているのかという根本の部分から考え直してみることをお勧めします。
どのような業種であっても、突き詰めると企業は顧客に満足を売っているということになります。しかし、顧客が何に満足するのかは千差万別で曖昧で、時代と共に変化したりします。
もちろん、低価格というのも顧客が満足する一要因でしょう。しかし価格競争に突入してしまうと消耗戦になり、長期的にはその業界そのものが衰退してゆく結果になりがちです。どのような業種であっても価格競争による低価格化には限界があり、現在の価格から、価格がゼロになるまでのどこかで企業が維持存続できなくなる限界点があります。価格競争の場合、その限界点をより低く設定できる企業が生き残るという、文字通りの薄利多売による体力勝負で維持存続をすることになります。販売しているものが量産できるものであるか否かに関わらず、そのような薄利多売による維持存続は企業を疲弊させますし、価格のみを差別化要因とすると外部環境の変化に弱くなります。
一方で、お茶屋の例に限らず、婦人服ブランド、一部の欧州車、宝飾品、スイス製時計、外資系ホテル等々、価格以外で競争し長期間にわたって成功している企業はたくさんあります。そのような企業の特徴は、小ロット生産で高い販売単価であり、規模の拡大を追求していないという点です。ただし、そのような価格以外での競争は価格競争以上にハードルが高く、技術や品質や販売促進等々の徹底的な追求を要するという厳しいものになります。
この価格以外で競うと決める等の方針決定に関する良いところは、自社単独で「価格以外で競う」という方針を決めることができる点です。
方針を決めることは一企業単独でできるのですが、それを完遂することは至難の業です。一企業にとっては、維持存続できるギリギリまで販売価格を下げ、売上を伸ばすことの方が安易な選択となります。
お茶屋の場合は、言うまでもなく価格以外で競うという厳しい方針を選択し、長年存続しています。以降ではお茶屋を事例として価格競争への対応例を考察してみます。
コモディティ
価格競争にならざるを得ない状況として、販売しているものがコモディティである場合が挙げられます。
コモディティというのは、誰が生産しても差異がないほどに一般化しているようなもの、というほどの意味です。例としてよく挙げられるのが、商品先物取引所で取引されるような原油・ガス・金・銀・プラチナ・銅・アルミ・小麦・大豆・とうもろこしなどのようなものです。
このように「誰が作っても同じ」状態は、つまり、そこに技術は必要でしょうが、独自の技術はないということになり、誰が生産しても同じ品質であって、価格だけを他社との差異とせざるを得なくなる状態を招きます。
もしも価格以外で競うのであれば、まずは自社が世に出しているものがコモディティ化していないかどうか、コモディティ化しないようにするにはどうしたらよいかを考える必要があります。
昔から存在する成熟した商品の場合、ある程度コモディティ化していることの方が多いと思います。お茶屋の提供する宴会のプロデュースも三五〇年前からあり、同じ花街の中のお茶屋同士ではなかなか差をつけ難い状態だと言えます。しかしそこには、一見さんお断りという個別の顧客へのきめ細かいニーズの把握と対応や、お茶屋は街に一つという不文律による(結果的に)無用な価格競争回避の仕組みがあり、しかもそれぞれのお茶屋のお母さんは仕出しによる料理の品質チェックや、芸舞妓が急病の時の咄嗟の代役の手配や、入手困難な観劇のチケット入手や、お座敷での芸舞妓の立ち居振る舞いのチェック等々、提供するサービスの品質向上のための研鑽を怠っていないという、脱コモディティ化の努力の日々があります。さらに、花街単位でも、一切の妥協の無い厳しい稽古による芸舞妓の伎芸の研鑽や、花街ごとの特色あるイベントの開催等、脱コモディティ化の努力が行われています。
もしも自社が世に出すものが昔から存在するコモディティ化したものであっても、細部までよく検討すれば、お茶屋の事例のように価格以外で競う余地や方策はまだまだ残っている可能性があります。
価格競争となる理由
価格競争となる理由は、価格以外に競争できるものがないからだと言えます。言い方を変えると、そこに独自の技術や品質がないから価格で競うしかなかったと言えます。
独自の技術や品質がない理由は、荒っぽく言ってしまうと、それを開発したり磨いたりしてこなかったからです。
当然のことを言っているようですが、実は、独自の技術や品質を開発したり磨いたりすることは非常に大変なことで、着手したとしても成果が出るかどうか分かりませんし、成果が出るとしてもそれがいつなのか分からない性質のものです。
そのような結果が出るかどうか分からないようなものに人手とコストをかけて取り組むよりも、確実に売り物を世に出せる既存の汎用技術を使い続け、値下げで販売を拡大する方がはるかに安易な道です。
もちろん、価格競争に対応するためには、値段を下げてでも採算が取れるようなコストダウンの努力をしなければなりません。しかし、独自の技術や品質による高付加価値化に基づく高価格戦略に比べると非常に安易な選択です。
厳しい言い方になりますが、自社が価格競争に巻き込まれている理由は、自社が安易な方向へ向かう選択をしたからです。
そして、どのような選択をするのかは経営者が決断することであり、この決断することこそが経営者の仕事と言えます。
京都花街のお茶屋の場合は、誰か単独の経営者の決断ではなく、花街全体として方向性を選択したと考えられます。もし仮に、京都花街の長い歴史の中で、価格競争の方向に舵を切ったお茶屋があったとしても瞬く間に淘汰されたでしょう。そこには、お茶屋・置屋・仕出しをする料理屋という分業が成り立っていたという要因もありますし、お茶屋は街に一つという不文律があったという要因もあったかもしれません。
しかし花街全体の根底に流れている「芸は売っても身は売らぬ」という言葉に代表されるような独自に磨き抜いた技術や品質で勝負するという思想が自然と価格競争の回避につながったように感じます。
高いから買わないのか
価格競争への対応を考えるとき、そもそも本当に顧客は高いから買わないのかを考えてみる必要があります。
先述したようなコモディティの場合は、その価格が購入意思決定の決定的な要因となるでしょう。しかし、コモディティでないものの場合は価格以外の要因が大きな比重を占めることになります。当然、ものには世間的にある程度の幅を持った価格帯に収斂(しゅうれん)する相場というものがありますから、ここでは、そこから大きくかけ離れた例外は別とします。
お茶屋の場合、宴会の成功だけに着眼すると、ホテルの宴会場に派遣のコンパニオンを呼ぶという選択肢があるかもしれません。
芸舞妓と話してお座敷遊びをしたいというニーズに着眼すると代替できるものを見つけるのは困難ですが、仮にここでは京都に立地の近い大阪の北新地のクラブやラウンジでホステスと酒を飲むという選択肢があるとします。
これらのように選択肢がある場合、お茶屋を選ぶ理由は価格とはなりません。
すでにここまで事例を挙げる中で述べているように、お茶屋が他に代替できない独自の高品質なおもてなしを個別の顧客への受注生産として提供しているから選択することになります。
世の中には少数ですが、価格は度外視してでも良いものを入手したいというニーズや市場は確実に存在します。そのようなニーズや市場から選択されるような独自の技術や品質を持つことは非常に困難な茨の道であり、多大な努力と時間を要する道です。
お茶屋を例にとると、ここまで述べてきたような全方位に向けたスキのない弛まぬ研鑽を長期にわたって継続することを要し、実際にそれを実行してきたということになります。
髙橋 秀彰(たかはし ひであき)
髙橋秀彰綜合会計士事務所 代表。公認会計士・税理士・宅地建物取引士。昭和40年生まれ、愛知県出身。立命館大学理工学部卒。創業当初の資金状況の苦しい中でも「一見さんお断り経営」を貫き、公認会計士であるにもかかわらず経済合理性に反するリスクを背負った経営判断を行ったことから一目置かれる信用と実績を築く。とくに他の会計事務所では手に負えない高度な案件などを得意としており、数多くの相続対策や非上場企業の株主構成の再構築、資金繰り改善の実績を持つ。また、京都花街のお茶屋では稀有な顧客として知られ、京都花街の不文律や裏事情にまで精通している。
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