(本記事は、橋場 日月氏の著書『
戦略は日本史から学べ』クロスメディア・パブリッシングの中から一部を抜粋・編集しています)
武田軍は一部上場企業、上杉軍はベンチャー企業
謙信の出陣パフォーマンス
「甲斐の虎」と呼ばれた武田信玄は天文11年(1542)に信濃国(しなののくに)(現在の長野県ほか)へ侵攻し諏訪頼重(すわよりしげ)をくだすと、その後大井氏、高遠(たかとお)氏と南部の諸勢力を次々と亡ぼして天文19年(1550)小笠原長時(ながとき)を追って中部も制圧。さらに天文22年(1553)、北信濃葛尾(かつらお)城の強豪・村上義清(よしきよ)も抵抗むなしく武田軍に領地を奪われた。
この結果、長時や義清は「越後(えちご)の竜」上杉謙信を頼って越後へ落ち延び、旧領の回復を願う。謙信としても、信玄が信濃の北端までをすべて支配下に入れ、越後国境を直接脅かされることは何がなんでも避けたい。また、彼自身が「高梨のことは、とりわけ誼(よしみ)があるから、どうしても見放すわけにはいかない」とも述べたように、謙信の祖母がこれも信玄に追われた北信濃の高梨氏の出であるなど、越後と北信濃は幾重にも血縁関係で結ばれており、その点からも信濃北端の川中島(かわなかじま)地方が両雄の激突の舞台となるのは必然の結果だった。
現在の長野市を東西に貫く犀川(さいがわ)、そしてその犀川から分かれて南へと流れる千曲川(ちくまがわ)。川中島地方はこのふたつの河川に挟まれている。天文22年(1553)、謙信は8000の兵を率いてこの川中島に出陣する。第一次川中島の戦いだ。
彼は事前に村上義清にこう尋ねた。
「信玄とはどんな用兵をするのか」
義清が「せっかちな戦いはせず、勝利後は一層に用心深く三分・五分の成果で満足するようなやり方です」と答えると、謙信は「彼は領地を増やすことを目的とするからだろう。しかし、私は領地に興味はない。目の前の戦いに全力を投じるのみ」と力強く宣言したという。
ここに信玄と謙信の戦略の違いがはっきりと表れている。
信玄は信濃北部の征服を目的とし、謙信は武田軍の撃破そのものを目的とするものだった。
上杉軍では、村上義清・高梨政頼(まさより)ら信濃からの亡命客将たちが道案内となり先陣を受け持つ。復仇(ふっきゅう)の念に燃える義清らは、開戦から武田信玄討つべしと猛攻を加え、高坂昌信(こうさかまさのぶ)らの武田軍先陣を崩すほど奮戦した。政頼の子・頼治(よりはる)は「幸隆(ゆきたか)にむずと組む。幸隆深手(ふかで)を負はれ、既に危うく見えける処ところに」、幸隆の家人が助太刀して来て討ち取られた、という(『滋野世記』(しげのせいき))。
ここで頼治に重傷を負わされた幸隆というのは、大坂の陣で活躍した真田信繁(のぶしげ)(幸村)の祖父、真田幸隆のことだ。
こうして上杉軍は武田の先陣を破ったものの、信玄は南の塩田(しおだ)城で情勢を眺めたまま動かない。主力決戦を望んでいた謙信も、退路を断たれるのを恐れたため、それ以上は兵を深入りさせず、兵を引き揚げた。
ところで、謙信はそれからどうしたのだろうか。彼は休む間もなく京へ上ったのだ。前年に京の後奈良(ごなら)天皇から従五位下(じゅごいげ)・弾正少弼(だんじょうしょうひつ)に叙位(じょい)任官され、この年4月には綸旨(りんじ)を下されていた。その御礼のための上洛である。
ここで信玄と謙信の外交戦略を見てみよう。信玄は、前年の天文21年(1552)に今川義元の娘を嫡男・義信の正室に迎え、天文22年(1553)2月に北条氏政と娘(黄梅院(おうばいいん))の婚約を成立させている。これに対して謙信が綸旨を得たのが同じ年の4月ということで、かたや信玄が武田・今川・北条の三国同盟という実利的な外交戦略を、かたや謙信が天皇のお言葉という大義名分戦略を、それぞれ採っていたわけだ。
信玄が三国同盟締結を成功させれば、背後の脅威から解放された武田軍が全力で信濃北部の制圧にかかってくるのは誰でも予想できる。謙信としてはそれに対抗する理由を、天皇に求めたということになる。天皇のお言葉を綸言(りんげん)というが、綸旨というのはその綸言を伝える公文書を意味する。ここで謙信に与えられた綸旨の内容を揚げよう。「平景虎任国並(ならび)に隣国挿(さしはさむ)敵心輩所被治罰也。伝威名子孫施勇徳万代弥(いよいよ)決勝於千里宜尽忠於一朝」――平景虎(たいらのかげとら)(謙信は当時景虎と名乗り、上杉氏は平姓)に対し、守護職に任じた越後とその隣国で謙信に敵対心を持つ者たちを「治罰(じばつ)」=討伐し、威名(いめい)を子孫に伝え、勇徳を万代に施し、いよいよ勝ちを千里に決し、よろしく朝廷に忠誠を尽くしてくれ、という内容だ。
実は、謙信の上杉家(当時は長尾家)は天文9年(1540)にも天皇から綸旨をもらっている。謙信の兄・晴景(はるかげ)が「私敵治罰(じばつ)」を許されたものだ。当時の越後の国内を取り締まり、反抗する者は朝廷の敵、「朝敵」=公敵とは認定しないものの、それを罰してよいという資格の下、晴景とその跡を継いだ謙信は国内統一を進めている。
謙信が天文22年に得たのはその適用範囲を越後国内から外に広げたもので、隣国の敵というのは、謙信にとってはまさしく武田信玄、それに関東の北条氏を意味する。謙信は天皇の許可の下、外敵を討伐するという大義名分で軍事行動をおこなったのだ。
ところが、信玄は謙信の思惑には乗らず徹底的に決戦を避けた。戦いそのものは引き分けだったとはいえ、武田軍の撃破そのものを目的とした謙信の戦略は失敗に終わったということなのだろうか。
実は、そうとも断定できない。謙信が御礼のため上洛するというのは政治日程として早くから調整され決定されていたはずだから、その直前におこなわれた第1次川中島の戦いというのは、そのタイトなスケジュールから見てもこの綸旨の趣旨に沿って「敵」の信玄と戦ったという事実を報告することを目的としていたと考えた方が自然だ。つまり、
第1次川中島の戦いは謙信にとって天皇のお言葉を実行に移したというプロジェクト報告書(成果物)提出のためのパフォーマンスだったとも言える。だとすれば、謙信としては信玄との主力決戦という第1戦略目標は達成しなくとも、出陣したというだけで第2の戦略目標は満たしたことになる。
では次に第1次川中島の戦いを、別の見方で考えてみよう。地政学という単語には地理が経済に与える影響という意味が含まれるが、川中島地方が謙信・信玄両者に与える地政学的なリスクとメリットだ。川中島地方には北国西脇往還(ほっこくにしわきおうかん)(北国西街道)が通り、越後の直江津(なおえつ)から東山道(とうさんどう)(中山道)の信濃洗馬(せば)を結ぶ。この経路で越後からは日本海の海産物や塩が信濃・甲斐へ搬送される。一方、信濃・甲斐からは馬や、おそらく蕎麦などの穀物が越後へ輸出されたと思われる。つまり、川中島を支配することはこの商業活動を掌握することに直結するのだ。甲斐は山国で、物産に乏しい。言うならば輸入超過国だ。信玄は甲斐の富がフリー状態で越後に流出するのを防がなければならない。一方の謙信は甲斐の富を越後に導き、信玄を立ち枯れさせたい。商業流通の主導権を握れば相手に対し経済的優位に立てるのだから、どちらにとっても何がなんでも押さえておかねばならない要地だった。
善光寺の御威光を味方につける
さらに、川中島地方には善光寺がある。北国西脇往還もこの善光寺の参道に取り込まれていた。
「遠くとも一度は詣れ善光寺」「牛に引かれて善光寺参り」という言葉は有名だが、小諸(こもろ)の布引(ぬのびき)観音が牛に化身しておばあさんを善光寺へ連れていく伝説でもわかるように、善光寺は信濃各地から信者を集めていた。いや、鎌倉幕府の厚い保護を受け、あちこちに「新善光寺」が建立されたように、全国の信仰の対象だった。信者が集まれば、そこに宿ができ、市が立ち、物資が集まり経済が回り出して宗教都市は商業都市となる。その商業都市を押さえることはそのまま税収アップにつながる。実際、善光寺が第1次から第3次と繰り返し争奪戦の対象となって兵火にかかり焼失すると、永禄(えいろく)元年(1558)に信玄はその本尊を甲府に移して翌年には甲斐善光寺(甲府市善光寺に現存)が建立され(『王代記』)、また別の説として謙信も本尊を春日山城下に迎えて如来堂を建て、浜善光寺と呼ばせた(上越市五智(ごち)に現存)。武田氏の支配を逃れて来た信濃の人々もその周辺に住まわせたという。ロスのチャイナタウンならぬ、甲斐・越後のゼンコウジタウンだ。
両者が善光寺を自分のフランチャイズにしたのは、信仰心もあっただろうがそれよりも善光寺の集客力、商業力を本拠地に移植したかったのだろう。川中島の戦いは善光寺のパワーをどちらが手に入れるかの戦いだった。
天文24年(1555)の第2次、弘治3年(1557)の第3次と川中島での戦いは繰り返されたが、いずれも信玄は決戦を避け、結果的に善光寺周辺の支配権を確立してしまった。まさに、謙信自身が看破したように「領地を増やすために三分・五分の勝利を積み重ねていく」信玄のやり方と「目の前の戦いの勝利を追求する」謙信の信念との戦いだったわけだが、結論としては信玄の戦略が上を行ったことになる。
橋場 日月
歴史研究家、歴史作家。1962年、大阪府生まれ。関西大学経済学部卒。会社員時代を経て独立。歴史雑誌に精力的に寄稿している。テレビやweb配信の歴史系番組出演もこなす(本データはこの書籍が刊行された当時に掲載されていたものです)
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